日野俊基とは
 
 
楠木正成、新田義貞、北畠顕家、足利尊氏、その他諸々。彼らは鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて名を馳せた面々です。そんな彼ら全員に共通していることは、後醍醐天皇に人生を翻弄されていることです。
そして、日野俊基もまた、後醍醐天皇によって翻弄された一人です。

日野俊基は後醍醐天皇の側近で、1318年に蔵人頭に任命されました。

摂政・関白をおかず天皇親政を行った醍醐・村上天皇に憧れる後醍醐天皇は、自らも親政による日本の統治を望んでいました。それゆえに鎌倉幕府による政権運営を苦々しく思っており、数度にわたって討幕計画を企てます。

まず、後醍醐天皇の親政が始まった1321年に発覚したのが『正中の変』です。計画ではなく発覚です。
後醍醐天皇は勉強会と称して側近を集め、そこで討幕の密謀を行っていました。
さらには日野俊基と日野資朝に全国へ旅をさせ、鎌倉幕府に不満を持つ武士や味方になりそうな武士を探させては倒幕活動への参加の勧誘を行わせていました。この旅の中で楠木正成とも出会っています。
ところが、計画に加担していた土岐頼員という武士が、妻にこの計画を話してしまいました。その妻が幕府の役人である父に相談したために計画は発覚、関係者は捕らえられてしまいました。
このとき後醍醐天皇は罪を全て日野資朝にきせたので、日野俊基は釈放されました。

続いて1331年、再び後醍醐天皇の討幕計画が発覚しました。『元弘の変』です。
ここでは後醍醐天皇の画策する計画があまりにも杜撰であるため、天皇の身を案じた側近の吉田定房が、日野俊基に罪を押し付ける形で幕府に密告したのでした。
逮捕された日野俊基は鎌倉へと護送され、現地で処刑されました。