五代友厚とは
 
 
五代友厚は幕末期の薩摩藩で生まれました。
藩の役人として働いていた五代でしたが、二十二歳のときに長崎海軍伝習所へと出向し、ここで航海術や砲術などを学びました。

幕末・明治に輝いた薩摩出身の勇士たちは薩英戦争で初陣を飾ったという人がほとんどなのですが、御船奉行だった五代は開戦前にイギリス側との事前交渉に臨み、捕虜にされてしまいました。
戦後すぐに薩摩藩とイギリスは協力関係となり、五代も解放されましたが、捕虜となったことを藩に咎められそうだということで、しばらく身を隠すことになったのでした。
ただし、何もせずにコソコソしている五代ではありません。薩摩藩へ意見書を提出し、イギリスへ留学生を送り込んで西欧の技術を積極的に吸収することと、近代産業を興すことでの富国強兵を提案したのです。この意見書は採用され、薩摩は日本の行方に関わる強藩となってゆきます。

1867年にパリ万博が開催されることとなった。ヨーロッパへ留学していた五代はその情報を入手、薩摩藩はいち早く万博への出展に乗り出しました。江戸幕府が遅れて参加を決めたこともあり、現地では薩摩藩と幕府が対等なものに見えたといいます。

幕府は倒れ、時は明治となりました。
新政府に仕えることになった五代友厚は大阪を拠点に銀行や通商、そのための大阪港の整備などに携わっていきました。経済面で欧米と渡り合える環境を整えていったのです。

大阪から横浜への異動を命じられたのを期に五代は政府を辞しました。それからは実業家の五代友厚として、大阪を中心に経済を発展させていくのです。

五代は鉱山事業として国内26箇所の鉱山を開拓し、鉱山王と呼ばれました。そして大阪株取引所や大阪商法会議所、さらには商業大学や鉄道や貿易会社など、五代は次々と事業を展開していきます。

明治十八年に四十九歳の若さで五代友厚が亡くなったことは、近代化を進める日本にとっては痛い損失だったのかもしれません。