榎本武揚とは
 
 
榎本武揚は1836年(天保7年)、江戸で幕臣の次男として生まれました。

昌平坂学問所での成績はかなり悪かったようですが、その後に入所した長崎海軍伝習所では優秀な成績を残し、 築地海軍伝習所が開設されると、教授となりました。

1862年(文久2年)、幕府はオランダに軍艦の建造を発注すると共に、数名の留学生を派遣することを決定し、 榎本武揚はその留学生の一人に選ばれました。

オランダ留学中に、砲術、化学、国際法などを学び、当時の国際感覚を磨いていきます。
3年ほどが経ち、軍艦『開陽』が完成すると、その開陽に乗って日本に帰国しました。

榎本が帰国したのは、往復の旅の期間を合わせると、出発から5年が経った1867年(慶応3年)、 この年は大政奉還が行われる年で、榎本が居ない間に国内の情勢はずいぶん変わってしまっています。


1868年(慶応4年)の正月早々、幕府軍と新政府軍による鳥羽伏見の戦いが始まりましたが、 幕府軍の総大将である徳川慶喜が大阪から逃亡、実家の水戸に引き籠もります。
大将不在で総崩れの大阪から、榎本も大阪城の軍資金や敗残兵を収容して江戸に帰還しますが、 やがて東に押し寄せる新政府軍を前に、江戸城も無血開城します。この時榎本は幕府艦隊を率いて江戸を脱出、 東北を転戦しながら北海道は函館の五稜郭を占拠して、ここを本拠に新政府軍を迎え撃ちます。

不運が重なり艦隊を失なってゆき、戦力差からじりじりと追い詰められると、五稜郭は新政府軍に包囲されていきます。 この時点で降伏の意思の無かった榎本は、「日本のために役に立つから」と、国際法を記した書物を新政府軍の黒田清隆に送りました。
これを見た黒田清隆は、榎本が新しい日本に必要な人物であることを悟り、会談して榎本を熱心に説得、榎本らは新政府に降伏しました。


黒田清隆や榎本の家族、福沢諭吉らの尽力もあり、榎本が無罪放免で釈放となったのが明治5年、 その恩人の黒田の願いを受けて、明治政府の高官としての活躍が始まります。

まず榎本が携わったのが、北海道の開拓です。各地の資源調査や、気象観測所の設置などを行いました。

明治7年には日本初の帝国海軍中将となり、駐露特命全権公使に任命されて、ロシアとの領土交渉にあたります。

当時、千島に関しては、択捉以南は日本領、得撫以北をロシア領と定めていました。一方、樺太は日露雑居状態でした。
ロシアが流刑地のようにあつかっている樺太の治安が良いわけがなく、ロシア人による事件があとをたちません。
榎本は強気の交渉で、千島・樺太交換条約を締結、樺太全域を明け渡す代わりに、千島全島を日本領として承認させました。

その後も大臣を歴任した榎本は、明治41年に腎臓病で亡くなりました。享年73歳。



明治から昭和初期の日本は、現代と違って名外交官と呼べる人物を多数輩出しています。
榎本武揚もその一人で、倉山満氏の著書によると、千島・樺太交換条約の交渉時には、下記のような記録が在るそうです。

榎本がロシアとの交渉にあたったとき、樺太在住ロシア人によるアイヌ人女性への強姦殺人事件が発生しています (原史料には実名がありますが、もちろん省略)。日本側が執拗に処分を迫ったにもかかわらず、ロシアはのらりくらりです。

明治7年8月20日の交渉記録ですが、榎本はバロン・ヲステンサーケンアジア局権頭という木っ端役人に、 「オタクの国の住民は殺人事件が絶えない。しかし、オタクが取り締まり処罰をしたという話も聞かない。どういうことか」と、 「お前の国に警察あるの?」と言わんばかりの高圧的な交渉を仕掛けました。「処罰はしている」などと言い逃れをするので、 「では処罰をしたという罪人のリストを出してもらおう。オタクとの交渉記録には、その犯罪者の氏名が提出されたという記録が一度もない。 オタクが本当に処罰をしたというなら、今すぐにでも提出してもらおうか」と、さらに詰め寄ります。 サンプトペテルブルク(当時のロシアの首都)の外務省を家探しでもしかねない勢いで、「お前は机の整理もできんのか」と責めたてたわけです。

交渉中も紛議が絶えなかったのですが、そのたびに追究することを榎本は忘れませんでした。 その間、どんどん交渉相手の階級が上がっていきます。ロシアは、榎本を「流刑地シベリアの先の野蛮人」くらいに思ってなめていたのですが、 だんだん下っ端では相手にならないことを悟っていくのです。

榎本は頃合いを見て、「こんなことになるのは、樺太が世界に類なき雑居状態だからだ」などと話を広げ、 一気に領土問題の解決に持ち込もうとします(最初に持ちかけたのは、明治7年11月14日)。 日露双方ともにもったいぶって、榎本も「樺太の権利を人に譲るのは、もっとも全国民が関心を寄せるところだ」などと、 話を大げさに持っていきます。本音ではロシアの外務省を探って、「強く押せばロシアもこだわるまい」と インテリジェンスを働かせていたにもかかわらず、あえて芝居がかった交渉をするのです。 「日本人にとって樺太を手放すことがどういう意味かわかっているのか?」というわけです。

1875年(明治8年)5月7日、遂に千島樺太交換条約が結ばれました。
非業の死を遂げたアイヌ人女性の死を無駄にはしなかったのです。