千葉常胤とは
 
 
千葉常胤(ちばつねたね)の千葉家当主としての人生は、その大半が領地の権利を巡っての揉め事への対応に明け暮れる日々でした。

十八歳で千葉家を継いだ常胤ですが、千葉家が治める領地の内、下総相馬御厨と呼ばれる地域は先代の頃から伊勢神宮に寄進していました。
これは土地の名義を寺社に譲りつつ、管理の実務は従来のまま自ら執り行ってゆくことで、国への納税を回避するという当時の日本各地の領主たちにとってはオーソドックスな手法でした。

ところが1136年、下総守だった藤原親通は脱税を理由に常胤の父の千葉常重を逮捕すると、下総相馬御厨の領地を取り上げて自分の物にしてしまいました。
とうぜん揉めるのですが、ここに源義朝(頼朝の父)が介入して、彼も相馬郡の権利を獲りにきました。
源義朝のこの動きが土地の横取りのためなのか、揉め事の仲介のためなのかは不明なのですが、千葉常胤は未納とされた税を追加で納めるなどして、領地の回復に尽力しました。

1160年に平治の乱にて源義朝が敗死しました。
すると、今度は常陸国の佐竹義宗が藤原親通の子である親盛から相馬御厨の領有権を譲り受けたと主張を始めます。しかも、その主張が伊勢神宮を認めてしまったのです。

1180年、すでに千葉常胤は60歳を越えていましたが、この年に源頼朝が挙兵しました。ところが、頼朝は伊豆で兵を挙げたものの、石橋山で敗れて房総半島へと逃げてきたのです。
そんな頼朝が軍を立て直すために千葉常胤を頼ってきたことで、常胤の運命が開けました。

鎌倉へ向けて西へと進軍する源頼朝に従った千葉常胤は、時には旧知の豪族の協力を得、時には立ちはだかる平家方を打ち破り、頼朝を助けます。
これまでは平時のルールの上で渡り歩いてきた常胤でしたが、武によって立ち上がったからには平家への気遣いなどありません。最初に難癖をつけて領地を奪った藤原親通の孫である藤原親政を戦闘で破り、捕らえました。
さらに都から頼朝討伐のために遠征してきた平家の軍勢を富士川の戦いで返り討ちにしました。
そして最後に領地を奪った佐竹氏をも攻め潰し、常胤は失地の回復を果たしました。


頼朝から見ればはるかに年輩の常胤など老人なのですが、歳に似合わぬ老練な働きから絶大な信頼を受けたようで、その後の西日本への平家追討へも参戦を命じられ、源氏軍は平家を滅ぼしました。
さらに奥州征伐では、東海道方面の大将を任されています。

そうして源頼朝が天下を治めたとき、千葉常胤に与えられた所領は、房総半島一帯の他、薩摩、肥前、美濃、陸奥と、広大なものとなっていました。

相馬の領地を維持するために長い年月苦労を重ねてきたのはいったい何だったのだろうか、と思えるほどの、晩年の大逆転人生なのでした。