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浅井忠とは |
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黒船の来航後、幕末に向けてにわかに世間がきな臭くなってきた1856年、浅井忠(あさい ちゅう)は佐倉藩に生まれました。
少年時代は藩校にて学問と武道を習いつつ、同じく佐倉藩の南画家・黒沼槐山に花鳥画を学んで絵の才能を開花させます。
佐倉藩は「蘭癖」といわれ、欧米との開国を進めた老中の堀田正俊が藩主でしたから、当時の日本の中では西洋文化に親しみやすい環境だったはずで、
明治になると浅井忠は洋画を学ぶようになり、東京美術大学の教授を経てフランス留学も経験しました。
帰国した浅井は京都に拠点を移し、1907年に亡くなるまで多くの後進を指導しました。
教え子の中には正岡子規もいたといわれています。
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